改めて仏教について考えてみた

私たちの仕事上、日々外国人の方と触れ合う機会が多くあります。その中で宗教について意識する事が多々あるのですが、今回は我々日本人と最もなじみが深い仏教について書きたいと思います。

日本人は無宗教とよく言われますが、普段の生活の中で仏教的行動の習慣がない為、あまり感じないのかと思われます。私も普段の生活の中で、お経を唱える事もありませんし、仏壇もありません。しかし、皆様のご先祖様のお墓はお寺にあることがほとんどではないでしょうか。

ここで改めて自分の宗派について調べてみました。

私は「曹洞宗」なのですが、曹洞宗についての知識は、とにかく座禅をすること、道元導師が開いたものくらいしかありません。しかし、この曹洞宗について調べてみると面白いものを発見しました。曹洞宗の開祖である道元導師は『正法眼蔵』という著書の中で「時間と存在の関係」について言及しております。

道元は、時間を「過去・現在・未来」という分けられたものではなく、すべての瞬間が「今ここ」に存在していると説きます。時間と存在は分かちがたく結びついており、すべての存在は時間そのものだとする洞察が示されている。
ここでふと、そういえば哲学者のハイデガーも同じような事を言っていたのではと思い、調べてみました。道元とハイデガーの時間についてどのように説明しているかは下記の通りです。

1. 時間と存在の一体性

道元の「有時」

道元は「有時」において、時間と存在を切り離して考えることはできないと説きます。すべての存在は時間の中で成り立っており、時間そのものが存在そのものである、という考え方です。つまり、過去や未来という区切られたものではなく、「今ここ」という瞬間に、すべての存在と時間が集約されているという思想です。道元は、この瞬間瞬間の実在に注目し、存在がそのまま時間であると示しました。

  • 道元にとって、時間はただ経過するものではなく、すべての存在は常に時間とともに「ある」という考えが基本にあります。

ハイデガーの「存在と時間」

一方で、ハイデガーの著作『存在と時間』においても、時間と存在の関係が中心的なテーマとなっています。彼は人間の存在(「現存在」または「ダーザイン」)を通じて、時間がどのように体験されるかを分析します。ハイデガーにとって、時間は単に過去から未来に進む直線的なものではなく、存在が時間の中で意味を持つものです。特に「現存在」の特徴として、時間性を持った存在であることが強調されます。

  • ハイデガーは、人間が自分の有限性(死の存在)を自覚することで、時間の中での自己の存在をより本質的に理解できるとします。この有限性の自覚が、時間と存在の関係を深く意識する契機となるのです。

2. 「瞬間」としての時間の理解

道元

道元は、時間を瞬間ごとに生きることが重要であるとし、その瞬間そのものが時間であり、存在であるとします。この「今ここ」での存在を完全に受け入れ、過去や未来に執着しない姿勢が、道元の時間理解の中心です。彼は、「有時」とは、存在が時間を持ち、それが同時に成り立っていることを意味しています。すなわち、各瞬間の中に無限の存在が含まれているという考え方です。

ハイデガー

ハイデガーもまた、「今」や「瞬間」が重要な役割を果たすと考えます。彼の哲学では、「現存在」が自己の有限性を認識し、時間の流れの中で自分の存在を意識することで、真に本質的な生き方が可能になるとされます。ハイデガーにとって、特定の瞬間における「自己の決断」が、その人の存在の意味を形作るため、瞬間的な存在と時間の結びつきが強調されます。

  • 特に「カイロス(特定の決定的な瞬間)」の概念を通じて、ハイデガーは瞬間的な存在の意味を強調しています。

3. 過去・未来との関係

道元

道元の時間観では、過去や未来は現在と分けて考えるものではありません。彼は「過去も未来も現在の中にある」と述べ、過去・現在・未来が一体化していることを強調します。すべての時間は今に集約されており、過去や未来に囚われずに、現在を完全に生きることが重要とされます。

ハイデガー

ハイデガーも時間を直線的に理解しません。彼は、過去や未来が「現存在」にとって意味を持つのは、現在の「在り方」においてであると述べています。つまり、人間は過去の経験をもとに現在を生き、未来に向かって自己の可能性を投げかける存在であり、過去・現在・未来が連続的に関わり合っていると考えます。

  • ハイデガーは「将来性(未来性)」という概念を強調し、人間は常に未来に向かって自分を投げかける存在であると主張しますが、それは現在の中で常に実践されることを意味します。

4. 結論:道元とハイデガーの共通点

道元とハイデガーは、それぞれの思想の中で「時間」と「存在」が不可分であることを示しています。道元の「有時」では、瞬間ごとの時間の中に存在が含まれ、その存在が時間を表現しているとされます。一方、ハイデガーも、人間の存在が時間と深く関わり合っており、時間を単なる物理的な流れとしてではなく、存在の本質的な条件として捉えています。

共通するポイントとしては:

  • 時間と存在の不可分性:両者とも、存在は時間の中でしか意味を持たないと考える。
  • 瞬間の重要性:道元は「今ここ」の瞬間が重要であり、ハイデガーも自己の存在の本質は瞬間的な決断や認識の中にあるとする。
  • 過去・未来と現在の関係:道元は過去と未来が現在に含まれていると考え、ハイデガーも過去・現在・未来が現存在の中で統合されると見る。

さて、難しい言葉もいくつかでてきましたが、時代背景や文化が異なる両名が主張する考えに共通する部分も多く、この考えに本質が見えてくるように感じます。

これらを私の中で解釈すると、道元の「有時」やハイデガーの「存在と時間」は、私たちに「今この瞬間を意識的に生きることの価値」と「有限な時間の中でどう自己を実現するか」というテーマを与えてくれております。
普段接する外国人の中にはものすごく考えが短絡的と感じる事がありますが、彼らが抱える社会背景の問題がある一方、哲学的な思考も必要ではないかとこの度改めて感じます。各種宗教の中には哲学的な教えが必ずあるので、その教えを元に教育していくのも、我々の役目かもしれませんね。